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会津ゆかりの人物紹介> 大山 捨松

【大山 捨松】おおやま すてまつ(1860~1919) ~鹿鳴館の華~

会津ゆかりの人物 大山捨松 【久野久子氏蔵】
(生涯)
・会津藩家老・山川重固(しげかた)の末娘として会津若松にて誕生。幼名は咲子。戊辰戦争の際はまだ幼いながらも兄や姉たちとともに若松城に立て篭もり、危険な作業もこなした。会津藩降伏後は家族とともに斗南に移住した。
・1871年、明治政府がアメリカに留学生を派遣する際に、若干12歳の咲子が選抜された。なお、この時の女子留学生は僅か5名であった。当時アメリカは海を隔てた未知の国であり、母は娘が生きて帰ってこないものと覚悟し「一度捨てて待つ」という思いから「捨松」と改名させ送り出した。
・アメリカでの留学生活を終えた捨松は、優秀な成績を修め1882年に帰国。翌年薩摩出身の陸軍大臣・大山巌と結婚。二男一女に恵まれた。また、国際交流・社交・外交の場である「鹿鳴館」において、英語を自由自在に話し、諸外国の外交官とも談笑できる花形女性として活躍した。
・教育熱心であった捨松は、華族女学校(後の学習院)や女子英学塾(後の津田塾大学)の設立など、その発展に生涯協力を惜しまなかった。
・晩年は皇后陛下のよき顧問役となったが、1919年スペイン風邪にかかり急逝。59歳の生涯を閉じた。
 
  (エピソード)
・兄・浩は後に陸軍少将、健次郎は日本人初の博士号を取得後東大総長に、姉・二葉は東京女子高等師範学校(後のお茶の水女子大)の学監、操は昭憲皇大后の女官になるなど、世にも稀に見る秀才揃いの兄姉であった。
・鹿鳴館時代は、長身で容姿端麗、優雅な立ち居振る舞いで英・独・仏語を駆使するその姿から「鹿鳴館の華」と謳われた。
・夫である大山巌は、かつて会津戦争において薩摩第二番砲隊長とて若松城へ砲撃した過去があり、その大山から捨松を妻に迎えたい旨の申し出があった折、家長でもある捨松の兄・浩は、会津藩の敵との婚姻など言語道断であるとしてはじめ猛反対であったが、大山の熱意に負けて許したとのエピソードがある。




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