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会津ゆかりの人物紹介> 松平 容保

【松平 容保】まつだいら かたもり(1836~1893)~新撰組や白虎隊が仕えた悲運の会津藩主~

会津ゆかりの人物【会津若松市蔵】
 (生涯)
・会津藩九代藩主。美濃国高須藩主・松平義建(まつだいら よしたつ)の六男として江戸藩邸で誕生。1846年に八代藩主・容敬(かたたか)の養子となり、1852年に会津藩を継ぎ藩主となる。
・1863年、当時非常に困難な職務であった京都守護職を引き受け、会津藩兵千余を率いて上洛。孝明天皇に拝謁し、緋の衣を贈られ信任の情を寄せられた。激動の京都市内の治安維持にあたり、新撰組を配下とするなどして反幕勢力と戦った。
・1867年に15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い江戸幕府が消滅。その後鳥羽・伏見の戦いが起こり、慶喜が江戸に撤退するのに従い、容保も江戸へ向かった。
・戊辰戦争の局面の1つである会津戦争において、容保は佐幕派、奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍と戦った。この間、白虎隊の悲劇を生むなど会津藩にとって苦しい戦いとなったが、若松城に篭城し最後まで抗戦した。
・奮戦むなしく1868年9月22日、新政府軍に降伏。戦後、家老・萱野権兵衛が会津戦争の全責任を一身に背負い切腹し、容保は江戸に蟄居となった。後に赦免され、1880年には日光東照宮の宮司となった。その後、家名存続を許されるとともに華族に列せられた。
・1893年12月5日、東京・目黒の実家にて肺炎のため永眠。享年59。墓所は会津若松市の松平家院内御廟にある。

  (エピソード)
・写真でも分かるとおり、細面、貴公子風の美男子であり、京都守護職時代、宮中に参内すると女官達が噂し合ったとの話が残っている。
・藤田五郎(元新撰組三番隊隊長・斎藤一)の仲人を務めたとのエピソードが残っている。
・孝明天皇からの信頼も厚く、京都守護職時代、禁門の変の働きが認められた際に、御宸翰(ごしんかん:天皇直筆の手紙)と御製(ぎょせい:天皇の和歌)を賜わり、終生肌身離さず持っていたといわれる。また、最期まで、周囲に幕末の頃の話をすることはなかったという。




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