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会津ゆかりの人物紹介> 中野 竹子

【中野 竹子】なかの たけこ(?~1868)  ~幕末会津の烈婦~

会津ゆかりの人物【法界寺蔵】
 (生涯)
・会津藩江戸詰勘定役・中野平内(ひょうない)とコウの長女として江戸の会津藩邸で誕生。
幼少のころより書道や薙刀も習い、書道は祐筆(ゆうひつ)を勤めるほどに成長し、薙刀は道場の師範代を勤めるほどの腕前であった。
また、他にも和歌をたしなむなど、文武両道を目指し日々修練していた。
・1868年に藩主松平容保をはじめとして会津藩士が故郷へ帰国。その中には父の姿もあった。
・戊辰戦争の会津城下での戦いにおいて、新政府軍が若松に攻め込んできた際は、竹子はじめ中野家の婦女子は自ら戦うことを決意。まず城に向かうも城門は敵に備え固く閉ざされており入城できず、やむなく竹子達数名は会津坂下(ばんげ)に向かったところで幕府軍歩兵部隊である衝鋒隊(しょうほうたい)と出会い、合流した。その後再び若松に引き返す際に長州・大垣藩兵と遭遇。竹子は薙刀を振って奮戦するも、額に銃弾を受けて斃れた。享年22歳。

  (エピソード)
・容姿端麗でありながら、男勝りの性格で天下の形勢などに強い関心を持ち、縁談などは極端に嫌っていた。
・銃弾を受けた際、敵に首級を取られることを良しとせず、最期は妹に介錯を頼んだという。
また、この時の薙刀の柄には
「もののふの 猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも」
と、辞世の句をしたためた短冊が縫い付けてあったという。




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