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会津ゆかりの人物紹介> 蒲生 氏郷

【蒲生 氏郷】がもう うじさと(1556~1595)~信長・秀吉が認めた文武両道のキリシタン大名~

会津ゆかりの人物【興徳寺蔵】
 (生涯)
・近江国六角氏の重臣・蒲生賢秀(がもうかたひで)の嫡男として誕生。幼名鶴千代。1568年、織田信長により主家の六角氏が滅亡した際、蒲生家も織田氏に臣従し、氏郷は織田信長のもとに人質として送られた。
・信長は氏郷を見てその非凡さを見抜き、翌年娘の冬姫と結婚させた。そのため、人質ではなく信長縁戚の武将となり、その後は主だった戦いに従軍し数々の武功を挙げた。
・1582年の本能寺の変により織田信長が明智光秀に討たれた際は、義父である信長の妻子を居城に匿い、反光秀の態度を示した。羽柴秀吉(豊臣秀吉)が光秀を討った後は秀吉に仕え、伊勢国松ヶ島12万石を与えられた。後に僅か三年間で松坂城を築き、城下町を作り上げた。
・小田原征伐、奥州仕置を契機として、1590年に会津42万石の領主となる。地名を「黒川」から「若松」へと改めて城郭の大改修を行い、全国屈指の七層の天守閣を築き「鶴ヶ城」と名づけた。また、東北の押さえとしての役割を果たし、一揆の鎮圧などの功により加増され、92万石の大大名となる。同時に漆や酒などの産業の奨励や定期市を開くなど 会津の商工業発展の礎を築いた。
・その後朝鮮の役の陣中にて体調を崩し、1595年、40歳の若さでこの世を去った。その文武の才と早世により、毒殺説が囁かれたほどの名将であった。

  (エピソード)
・武勇だけでなく和歌や茶の湯にも秀でた文化人であり、茶頭・千利休の高弟である「利休七哲」の一人に数えられる。なお、秀吉の命により利休が自刃した際は、その子の小庵を匿い茶室「麟閣」を設営したと伝えられている。
・家臣を大切にする武将であり、功に報いようと禄高を上げすぎようとして重臣に止められたとのエピソードがある。
・鯰尾(なまずお)の兜を着用し、「蒲生の戦場には常に鯰尾の兜が陣頭にあり」と謳われるほど、勇猛果敢な武将であった。
・熱心なキリシタン大名であり、洗礼名を「レオ」と称した。時の権力者である秀吉がキリスト教を弾圧すると、真っ向から批判した。




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