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【保科 正之】ほしな まさゆき(1611~1673) ~徳川家を支えた名宰相~
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【土津神社蔵】 |
(生涯)
・会津藩初代藩主。徳川二代将軍・秀忠(ひでただ)の四男。信濃国高遠藩主・保科正光の養子となり、幼年期を同地で過ごす。
・1631年、養父・正光の病没により、その跡を継ぎ高遠藩の藩主となる。1636年に出羽国山形藩20万石、1643年に会津藩23万石を拝領した。
三代将軍・家光は、有能で謹厳実直な正之に絶大な信頼を寄せ、その死に臨んで四代将軍・家綱や幕政の後事を託した。正之はそれに応え、殉死の禁止や諸侯の人質廃止をはじめとした様々な善政を施した。
・藩政にも力を注ぎ、会津藩時代には産業の振興、飢饉時の救済のための社倉制の創設、
90歳以上の高齢者への玄米支給など、現代の福祉や年金制度にあたる画期的な政策を全国に先がけて実施。その優れた民政の手腕をいかんなく発揮した。
・1672年62歳で永眠。神式で葬られ、神号は「土津(はにつ)霊神」。墓所は福島県耶麻郡猪苗代町見祢山にあり、後に墓所に隣接して土津神社が建立されている。
(エピソード)
・正之は秀忠の乳母の侍女の子であったため、秀忠は正室・江を憚(はばか)り、親子の名乗りを上げて正式に対面することはなかった。
・養父・正光が正之を養子とする際、既に実弟の正貞を養子としていたが、正之を嫡子とした。そのため、後に正之が高遠藩を継ぐこととなったことから、会津23万石に封じられた際に正貞も大名に取り立てられるよう嘆願し、保科家を存続させている。
・1657年の明暦の大火で江戸城天守閣が消失した際、幕閣たちの再建すべきとの強い意見がある中で、江戸の復興を優先し無駄な出費は避けるべきと主張。再建は見送られ、被災者の救済に大いに奏功した。
・幕府より、徳川家の元の姓である松平姓を勧められたが、保科家への恩義を忘れず生涯保科姓を変えなかった。松平姓を使用するのは、三代・正容(まさかた)からである。
・その善政は、八代将軍・徳川吉宗や「寛政の改革」で有名な松平定信も参考にしたほどである。
・和歌や俳句にも優れ、多数の作品が残されている。
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