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特集トップ>坂本龍馬を斬った男

坂本龍馬を斬った男
~佐々木只三郎(暗殺実行犯最有力候補)は会津若松出身だった!~

只三郎墓所
会津武家屋敷内にある
只三郎墓所

慶応3年(1867)11月15日、京都の近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が会談中に刺客に襲われ暗殺された。当初は現場の遺留品から、新選組の一派が犯人であるとされたが、戊辰戦争の後、見廻組の今井信郎の証言により佐々木只三郎(1833~1868)らが実行犯とされた。

只三郎は会津藩士佐々木源八の三男として会津で生まれ、長兄は、会津公用人の手代木直右衛門。 青年時代、『会津五流』と総称される流派の一つ『精武流』を藩の師範役羽嶋源太に学び奥義を極めた。また、沖津庄之助に従って槍術を学んだ。『小太刀をとっては日本一』とも言われ、二十歳前には、師の羽嶋をも凌いだとも言う。また、歌人としても知られた鈴木大之進について和歌も学んだ文武の人でもある。万延元年(1860)只三郎は、江戸に出府。佐々木家の親戚に当たる旗本、佐々木矢太夫に養子入りし、その家督を継いで浅草堂前の組屋敷に居住した。彼が歴史に名を刻み始めるのは、文久3年(1863)の頃からだろう。将軍警護のため幕府が募集し、京を目指すことになった浪士隊(勇や歳三もこの中にいた)を監督すべき立場の、取締並出役の一人に選ばれたのである。新選組が会津の預かりになった経緯については諸説あるが、只三郎が実兄の直右衛門に口を利いた、という説もある。

その後、再度京に上った只三郎は、見廻組の与頭に抜擢。見廻組というのは、新選組とよく似た役割を持つ。ただ新選組が出自は問わない代わりに腕自慢を集めたのに対し、見廻組は旗本の次男、三男を集めた、いわばエリート集団である。平隊士レベルではいろいろ衝突もあったようだが、歳三や只三郎ら幹部レベルになると、共に遊郭に上がるくらいの親交があったとされる。龍馬殺害の最有力候補ながら、真相はいまだ歴史上の謎とされる。慶応4年(1868)1月6日、八幡の堤で戦っていた(鳥羽伏見の戦い)只三郎は、腰に被弾、紀州に運ばれたが、12日に亡くなった。遺体は、紀三井寺山腹に葬られたが、近年、会津に改装された。戒名は「賢浄院殿義岳亮雄居士」。この年の9月、年号は慶応から明治へと変わる。 34歳の生涯を剣と和歌に託して駆け抜けた武士の魂は今、会津に静かに眠っている。




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